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【大型記事】ハーン(中編)

.
【大型記事】ハーン(前篇)

のつづきでつね。


スルーしてた部分、まずはこの中の。。。


tenハーンの由来はカガン
【大型記事】ハーン(前篇)⇒こちら


「元」でつね。

「ハーン」で日本といえば「元」と「元寇」。

元とは。。。


元 (王朝)-Wikipedia


wiki元 (王朝)1

wiki元 (王朝)2

wiki元 (王朝)3



元は、1260年、チンギス・カンの孫でモンゴル帝国の第5代皇帝に即位したクビライ(フビライ)が、1271年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立し、モンゴル語ではダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス (Dai Ön Yeke Mongghul Ulus.PNG、ローマ字表記:Dai-ön Yeke Mongγol Ulus) すなわち「大元大蒙古国」と称した。

元々モンゴル帝国は傘下に天山ウイグル王国やケレイト王国、オングト王国などのテュルク系やホラーサーンやマー・ワラー・アンナフルなどのイラン系のムスリムたちを吸収しながら形成されていった政権であるため、これらの政権内外で活躍していた人々がモンゴル帝国に組み込まれた中国の諸地域に流入し、西方からウイグル系やチベット系の仏教文化やケレイト部族やオングト部族などが信仰していたネストリウス派などのキリスト教、イラン系のイスラームの文化などもまた、首都の大都や泉州など各地に形成されたそれぞれのコミュニティーを中核に大量に流入した。

14世紀末の農民反乱によって中国には明朝が成立し、大元朝のモンゴル勢力はゴビ砂漠以南を放棄して北方へ追われたが(北元)、明朝の始祖洪武帝(朱元璋)や紅巾の乱を引き起こした白蓮教団がモンゴル王族などから後援を受けていた仏教教団を母体としていることに象徴されるように、影響を受けていたことが近年指摘されている。


大都-Wikipedia


wiki大都

wiki大都2



モンゴル帝国(元朝)のクビライ・カアンが1267年から26年を費やして現在の北京の地に造営した都市で、元朝の冬の都(冬営地)である。現在の中華人民共和国の首都、北京の直接の前身であり旧市街に匹敵するほどの規模を持つ、壮大な都市だった。

1368年にトゴン・テムル・カアン(順帝)により放棄されると、明のもと大都は北平と改称され、規模を縮小されて、太祖洪武帝(朱元璋)の四男、燕王朱棣に与えられた。朱棣が靖難の変で帝位を奪い、永楽帝として即位すると対モンゴル政策の拠点として再び重視され、大都の3分の2程度の規模で北京が建設され、明の首都となった。永楽帝は元の時代の宮殿を徹底的に破壊し、その上に新たに紫禁城(現故宮博物院)を建設した。現在の故宮博物院の北にある景山は、このとき宮殿の堀を掘った際に出た余り土を積み上げて造られた、人工の山である。

これ以降、北京は現在に至るまで中国の首都として繁栄することになる。


フビライが支那地区を支配してできた国で、

朱元璋に滅ぼされた国だというのは


常識でつね。

今の支那地区の首都、北京は元が作った


都市だったわけでつね。


引用になんとなく書いてあるが、元が滅亡して


明になった時に、首都は南京になったわけでつね。



そしてもう一つ元に絡むのが元寇。



元寇-Wikipedia


wiki元寇1

wiki元寇2

wiki元寇3

wiki元寇4

wiki元寇5

wiki元寇6

wiki元寇7

wiki元寇8



日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。

特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった。主に九州北部が戦場となった。

 1265年(文永2年・至元2年)、クビライが日本に使節を派遣する契機となったのは、高麗人であるモンゴル帝国の官吏・趙彝(ちょうい)等が日本との通交を進言したことがその端緒となる。
趙彝は「日本は高麗の隣国であり、典章(制度や法律)・政治に賛美するに足るものがあります。また、漢・唐の時代以来、或いは使いを派遣して中国と通じてきました」[55]と述べたという。趙彝は日本に近い朝鮮半島南部の慶尚道咸安(かんあん)出身であったため、日本の情報を持っていたともいわれる。クビライは趙彝の進言を受け入れ、早速日本へ使節を派遣することにした。

1272年(文永9年・至元9年)、12人の日本使(『元史』日本伝では26人)が1月に高麗を経由し、元の首都・大都を訪問

10月16-17日、元軍は肥前沿岸の松浦郡及び平戸島・鷹島・能古島の松浦党の領地に襲来。

6月6日、博多湾沿岸からの上陸を断念した東路軍は陸繋島である志賀島に上陸し、これを占領。志賀島周辺を軍船の停泊地とした。

7月9日、日本軍は捕虜20,000~30,000人を八角島(博多か)に連行する。

十三回使節
1299年(正安元年・大徳3年)、クビライの後を継いだ大元朝第2代皇帝・テムルは、補陀禅寺の僧・一山一寧を正使として国書を託して日本へ派遣する。この一団が元が日本へ派遣した最後の使節団となった。


日蓮-Wikipedia


wiki日蓮

wiki日蓮2



時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立の様相を見せ始めた。

日蓮とその信者は『立正安国論』をこの事態の到来を予知した予言書であると考えるようになった。日蓮はこれに自信を深め、弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、さらに2回『立正安国論』を提出し、合わせて生涯に3回の「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行った。

1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後にあたる。



いろんなワードが出てくるが、要するに

バカチョンが原因でモンゴル人が攻めて


きたわけでつね。

で、「予言的中ニダ!」と喚いてるが、むしろ


バカチョンと密通してたんじゃねーか?

ってことでつね。




で、元が滅亡して明。滅亡にあたっては。。。


マニ教-Wikipedia


wikiマニ教



宗教に寛容な元朝においては、明教すなわちマニ教が復興し、福建省の泉州と浙江省の温州を中心に信者を広げていった。明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、その指導者の一人であった朱元璋の建てた明の国号は「明教」に由来したものだといわれている。しかし明王朝による中国支配が安定期に入ると、マニ教は危険視されて厳しく弾圧された。15世紀においてすでに教勢の衰退著しく、ほとんど消滅したとされてきたが、秘密結社を通じて19世紀末まで受け継がれた。1900年の北清事変(義和団の乱)の契機となった排外主義的な拳闘集団である義和団なども、そうした秘密結社のひとつといわれる。


皮肉なことに、チンギスハーンの出身地で

広がっていたマニ教が打倒の一因になった


とか(縛w

で、明も滅亡するわけだが、その原因は。。。


明-Wikipedia


wiki明1

wiki明2



1572年、わずか10歳の万暦帝が即位した。はじめの10年間は内閣大学士張居正が政権を取り、国政の立て直しが計られたが、張居正の死後親政が始まると帝は政治を放棄した。在位は48年に及ぶが、途中日本に攻撃された李氏朝鮮の救援(文禄・慶長の役)などの出費がかさみ、財政が破綻した。

が李自成を破って北京を占領し、中国支配を宣言すると、中国南部にいた明の皇族と官僚は南明を建て清に抵抗したが、雲南からビルマに逃げ込んだ永暦帝を最後に滅ぼされた。福建でも鄭成功が台湾を拠点に抵抗したが、鄭氏政権は後に清に降伏している。明の遺臣としては、このビルマ(コーカン族)、台湾のほか、広南朝ベトナムに亡命し、メコンデルタへの植民として活用された者などがある。南明は日本の徳川幕府に何度も援軍の派遣や物資援助を要請している。御三家や薩摩藩は出兵に対して乗り気であったとの記録がある。日本側は清への手前、公式に援助を行なうことが出来ないため鄭氏の交易利権(長崎貿易)を黙認することによって間接的に援助した。



文禄・慶長の役でつね。

これを起こしたのは。。。



文禄・慶長の役-Wikipedia


wiki文禄・慶長の役



1592年(日本:文禄元年、明および朝鮮:万暦20年)から1598年(日本: 慶長3年、明および朝鮮: 万暦26年)にかけて行われた戦争。

日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と 朝鮮および救援に駆けつけた明[11]の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を舞台にして戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大の戦争とされる。


豊臣秀吉でつね。


豊臣秀吉の画像(逸翁美術館) 歴代肖



これでつね。

もっとはっきりした絵があるはずなんだが、

頬骨ボーンでつね。


秀吉のバカチョン征伐は、日本に攻めてきた元を

倒した明を滅亡させる原因を作ったわけでつね。



そしてできたのが「清」。(前篇)で

・清は元の後継を自称


と書いたわけだが、清は。。。



清-Wikipedia


wiki清1

wiki清2



17世紀初頭に明の支配下で、満洲に住む女直(以下「女真族」)の統一を進めたヌルハチ(努爾哈赤、太祖)が、1616年に明から独立して建国した後金国が清の前身である。この後金国の建国と前後して、ヌルハチは満洲文字(無圏点文字)を制定し、八旗制を創始するなど、満洲人が発展するための基礎を築いていた。1619年、ヌルハチがサルフの戦いで明軍を破ると、後金国の勢力圏は遼河の東方全域に及ぶに至った。その子のホンタイジ(皇太極、太宗)は山海関以北の明の領土と南モンゴルを征服し、1636年に女真族、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこで元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽(後に作られた偽物である可能性が高いが)を譲られ、大清皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満洲に改めた

順治帝のとき、中国では李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んだ。清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京に遷し、中国支配を開始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党勢力(南明)が興り、特に鄭成功は台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げた。清は、初め摂政王ドルゴン(ヌルハチの子)によって、のち成長した順治帝の親政によって、中国南部を平定し明の制度を取り入れて国制を整備した。

異民族である満洲族の支配を漢民族が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったとの姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐、自殺に追いやられた崇禎帝の陵墓を整備し、科挙などの明の制度を存続させるなどあくまで明の後を継いだことを前面に出していた事が考えられる。



汚物ミンジョクのユウ婁の末裔の女真族が、

元の後継を自称して作ったわけでつね。



つまり、秀吉は元の敵、明を攻撃し、

清のアシストをしたわけでつね。



で、「悪いのは李自成で、民衆じゃないニダ!」

というどっかで聞いたような理屈で民衆を


洗脳したわけでつね。



その後、中華民国から中共になるわけだが、



継承国-Wikipedia


wiki継承国




香港島-Wikipedia


wiki香港島



1950年以降イギリスが清の後継(「中国」)とみなす中華人民共和国に譲渡された。



ハーンが作った元から後継である清、

その後継とみなされる支那地区まで


繋がるわけなんでつね。

そのつながりの中で、元寇や秀吉など日本との


関係もあるわけでつね。


そしてバカチョンコス好きブログを読んでる方は


見たことあるワードが満載なのに気づくと

思うわけでつね。





次に進むために必要とはいえ、

ここまで資料を貼り付けるだけのような


つまらない展開だったが、

そもそもの話である「ハーンとお茶屋」


に絡んで、ここまでの展開に絡むニュース

(おととしのだけど)を。



中国自動車業界に江沢民氏とロスチャイルドの影
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM2703B_X20C13A3I00000/


news中国自動車業界に江沢民氏とロスチャイルドの影

news中国自動車業界に江沢民氏とロスチャイルドの影2



 米オバマ大統領のグリーン政策で成長したものの経営が事実上破綻した米EV(電気自動車)ベンチャー、フィスカー・オートモーティブを巡る中国自動車大手の買収合戦が大詰めを迎えている。民営大手の浙江吉利控股集団と国有大手の東風汽車集団の一騎打ちの様相だが、その裏で蠢(うごめ)くのは、中国の自動車業界の秩序を作り出した江沢民元国家主席と200年以上の歴史を持つ金融財閥ロスチャイルドの影だ。

 「フィスカーの件ならば、ジェニファー・ユーに聞けばすぐに分かるよ」。自動車業界に詳しい外資系投資会社幹部は漏らす。ジェニファー・ユーとは何者か。中国名は兪麗萍氏。創業者がユダヤ系とされる欧州の金融大手ロスチャイルドの中国部門の代表で、江氏が息子のようにかわいがっている男性の妻といわれる。

 フィスカーの買収では、吉利と東風が早くから関心を寄せ、政治力を使って買収を実現しようとした。吉利の創業者、李書福董事長は習近平国家主席が浙江省トップだった時に親交を結んでおり、吉利が高級車ブランド「ボルボ」を買収した契約式典に習氏が参加したほどの仲だ。

 一方、東風は苗ウェイ(土へんに于)工業情報化相が2005年まで経営トップを務めた政府直轄企業。現トップの徐平董事長は苗氏と安徽省の合肥工業大の先輩後輩の関係で、苗氏は李克強首相と安徽省の中高で同級生だったため、東風は李首相のバックアップを受けるとされる

 習主席と李首相という中国共産党序列1位と2位の拮抗したパワーゲームの中でキーパーソンとなったのがユー。共産党幹部や海外要人との人間関係を活用してフィスカーの売却先の落としどころを探っているが、その詳しい経歴は不明だ。上海出身で上海財経大学を卒業し、仏金融大手のBNPパリバなどを経て、03年にロスチャイルドに入り、05年に中国部門のトップとなった。

 トップ就任後に顧客としたのが、中国自動車大手の上海汽車集団。同社が手掛けた英自動車大手MGローバーの資産買収や南京汽車の買収に関与した。さらに、吉利が10年に米フォード・モーターからボルボを買収した際にもアドバイザーとして加わり、中国、米国、スウェーデンの政府間の調整で手腕を発揮したといわれる。

 ユーの手掛ける案件に自動車が多いことは偶然ではない。ユーの背後にいるとされる江氏は長春第一汽車製造廠(現・中国第一汽車集団)出身。電子工業相(現・工業情報化相)などを歴任した機械閥の中心人物で、世界の自動車大手に中国国有企業との合弁を求めるなど中国自動車産業の枠組みをまとめた。

 江氏が率いた上海閥や機械閥の後継者が兪正声氏だ。昨年11月に共産党最高指導部の1人となり、3月には中国の国政助言機関、全国政治協商会議(政協)の主席に選出された。東風の本拠地である湖北省トップも務めたため、苗工業情報化相とも親しい。ユーはこれらの複数の有力政治家と「携帯電話で直接会話できる間柄」(関係者)とされる。

 一方、ユーにはロスチャイルドの中国代表としての顔もある。200年以上にわたり金融事業を展開するロスチャイルドの中国との関わりは深く、上海の事務所には清朝の大物官僚、李鴻章がロスチャイルド家に送った自らの写真と親書が飾られている。


ロスチャイルドの中国での主な動き

19世紀末 清朝の有力官僚、李鴻章と親交を結び、山西省などで炭鉱開発プロジェクトを立ち上げ
1970年代 北京と江蘇省の発電所建設や四川省のインフラ整備に財務アドバイザーとして関与
1980年代 中国の人工衛星ビジネスなどに関与
1990年代 上海市に事務所開設
2005年 上海汽車集団の英自動車会社MGローバーの資産買収や南京汽車買収に関与
2008年 中国通信大手の中国聯通と中国網通の合併に関与
    青島銀行に約5%出資
2009年 中国に設立したファンドなどを使って医療や食品、新エネルギーなどに投資開始
    山東省でのワイン合弁に参画
    中国五鉱集団の豪資源大手OZミネラルズの資産買収に関与
2010年 浙江吉利控股集団の高級車ブランド「ボルボ」買収に関与
    中国石油天然気とロイヤル・ダッチ・シェルの豪石油アロー・エナジー買収に関与
    中国華能集団の米発電会社インタージェンへの出資に関与
2012年 光明食品の英食品大手ウィータビックス買収に関与


(注)中国メディアなどの報道をもとに作成

 中国共産党の成立で一時撤退したものの、トウ小平の改革開放で中国ビジネスを再開。1970年代末から発電所などのインフラ建設のアドバイザーを務め、80年代からは衛星ビジネスに関与。90年代には上海に事務所を開設した。政治的なつながりが深く、国有企業の海外買収のアドバイザーを多く務める。

 例えば、10年に国有石油大手、中国石油天然気集団(CNPC)の上場子会社が英蘭系ロイヤル・ダッチ・シェルと豪石油会社を共同買収した案件、国有発電大手の中国華能集団が米同業に出資した案件にそれぞれ関与。石油は共産党の元最高指導部の一員である曽慶紅氏や周永康氏、電力は李鵬元首相の一族が影響力を持つ業界だ。

 フィスカーの買収案件については、ユーが吉利や東風のトップらと話し合って中国企業側を一本化する方向で動いていたが、サイバー攻撃を巡る米中関係の悪化やフィスカーの資産状態が想定よりも悪いことなどが判明したために一時凍結となったもよう。ただ、フィスカーは資金繰りの問題を抱えており、4月には身売り先を確定する必要があるとされる。フィスカーを法的整理して債務を軽減した後に買収しようとする動きも出ているという。

 ユーについて、中国の自動車大手幹部は「国際金融の専門家であり、ユーがすべてを取り仕切ることはありえない」と指摘するが、「人間関係が重要な中国でユーのような人物と組むことで政府の許認可がスムーズに進めたい思惑もあり、重要なピースだ」と打ち明ける。世界最大の中国自動車市場をどう攻略するのか。人脈構築で日本企業が取り組むべき課題は多い。



さあ出てまいりました(縛w

お茶屋の年表に麻薬取引が載ってませんが?(縛w



清-Wikipedia


wiki清3



18世紀後半になると、西欧諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。イギリス商人は18世紀末に西欧の対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州で茶貿易を推進した。


お茶屋は清との貿易で古くから付き合いが

あるわけでつね。


李鴻章は日清戦争の当事者。

お茶屋は日本と清に武器を売ってタヒの商人を


やってたわけでつね。


戦中は日本に追い出されて手が出せなかったが、


seaロスチャイルド 鄧小平



鄧小平を早い段階から手なずけて、

支那地区の体制を都合よく変えさせて


入り込んだわけでつね。



支那地区ビジネスを広げるうちに繋がったのが


江沢民、曽慶紅、周永康、CNPC(縛w

なんか逮捕されまくってますけど(縛w

ten習近平氏のかつての勤務先まで汚職摘発の矛先

ten李克強ちゃんが選んで捕まえてた

ten臭菌屁が党内支持基盤を失う可能性もアリ
【支那地区通信】日支・埋伏の毒パージ作戦⇒こちら


どこぞのバカチョンが「ウリには関係ないニダ!」

と喚いてたが、んなわきゃねーだろって話でつね。





エ下劣が勝ち残ることができたのは、

お茶屋の「ハーン」という出自のおかげ、


っつーか、支那地区への進出自体が

「ハーン」への回帰だったのかもしれないでつね。


ten「ウリ達こそ正統ニダ!」という妄想
なぜエ下劣が反日なのか⇒こちら




しかし、おそらく日本と蒋介石と毛沢東の合作で

お茶屋等、毛唐を排除し、文化大革命で


資本主義勢力が入り込めないようにしたんだが、

鄧小平によってそれが崩壊。



再びエ下劣サマナに乗っ取られた支那地区から

「汚職撲滅」の名目で売国奴を逮捕。


李克強ちゃんと臭菌屁の対立も芝居かも

しれないでつね。



そして日本と支那地区の対立も芝居、ってのは

前に書いた通りでつね。



お茶屋のマッ黒ナルドが支那地区発で

壊滅状態に陥るのは当然のことなんでつね。


わかり松。

( ゜∀゜)・∵ブハ八ノヽ/ \!!!!!!!!




さて大型記事は終わりではありません。

次につづきます。

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