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【大型記事】ハーン(後編)

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【大型記事】ハーン(中編)

のつづきでつね。


まずはお詫びから。

3/31から(前篇)(中編)と来て4/2、


読者のみなさん楽しみにしてくれていたのに

週をまたいじゃってすみませんでしたm(__)m



なんでわざわざこんなことを書くかというと、

続きを書かなかった4/2の訪問人数が


過去の新記録を更新してたからなんでつね。


それまでは去年の11月8日辺りだったんだが、


BAN騒動とか、IS騒動の時に

「読者の中にISが!!!!」


と書いた途端アクセス数が25%減ったり(縛w

したので、


なかなかアクセス数が戻らなかったんだが、

この大型記事を楽しみにしてくれてる読者の


おかげで新記録だったんでつね。


さてそんな大型記事のつづき、お楽しみくだちい。




(中編)ではお茶屋と清のつながり、

そしてそれが今に至るまで続いていることを


書いたわけでつね。


清についてもう少し。



清-Wikipedia


wiki清12



清の政治は圧倒的多数である漢民族を少数派である満洲族がどうやって統治していくかに気を配っていた。その政策の主眼となるものが満漢偶数官制と呼ばれるものである。中央の諸官のポストをそれぞれ満洲族・漢民族が同数になるように配置していく制度である。


清はこういうやり方をしていたわけだが、

おや?どっかで見たことあるような。。。


ten少数民族間接統治1

ten少数民族間接統治
日本を蝕んできたのはエ下劣サマナだ、と言ってるのに(前篇)⇒こちら


これでつね。

エ下劣は少数派を使って中東を支配したが、


これはフランス革命に端を発してるわけでつね。


清ができたのは1636年。


フランス革命は1789年に本格化し、

ワーテルローの戦いはちょうど200年前の


1815年。

お茶屋がフランス革命で頭角を現してきた


というのは新年特集ですでに書いた通りでつね。

そして(中編)で書いたように、エ下劣が清との


貿易で競り勝った時期と重なるわけでつね。


その後はご存知の通り、アヘン戦争以降


エ下劣に侵食されることになるわけでつね。



さて、そもそもの話、ハーンの元になった


「可汗」とは何なんでせうか。



カガン-Wikipedia


wikiカガン



『通典』辺防典巻一百九十六(北狄三)に「於是自號丘豆伐可汗。可汗之號始於此。」とあることから、可汗号を採用したのは柔然の丘豆伐可汗(社崙)が最初であるように思われるが、『資治通鑑』巻七十七の「至可汗毛,始強大,統國三十六,大姓九十九。後五世至可汗推寅,南遷大澤。又七世至可汗鄰,使其兄弟七人及族人乙旃氏、車惃氏分統部眾為十族。」という記述、『宋書』列伝第五十六(吐谷渾伝)の「樓喜拜曰“處可寒”。虜言“處可寒”,宋言“爾官家”也。」という記述、『晋書』列伝第六十七(四夷伝)の「樹洛干…號為戊寅可汗,沙漒雜種莫不歸附。」という記述、『北史』列伝第八十四の「乃跪曰“可汗,此非復人事”」「伏連籌死,子夸呂立,始自號為可汗。」という記述、『晋書』載記二十五の「乞伏國仁,…推為統主,號之曰乞伏可汗託鐸莫何。」という記述などから、丘豆伐可汗より以前から可汗号を使用していた形跡がみられる。


拓跋部-Wikipedia


wiki拓跋部



可汗という君主号は、一般的に柔然が最初に使用したとされるが[15]、一説にはそれよりも以前から鮮卑拓跋部によって使われてきたとされる。『資治通鑑』第七十七、八十において「可汗推寅」「力微可汗」などと書かれており、507年建造の『魏人奚智墓碑』に「僕膾可汗之後裔…改為達奚氏焉」とあり、僕膾とは序紀に見える拓跋儈に当たり、『魏書』官氏志によれば達奚氏という名称は拓跋隣の代に初定されたというので、拓跋儈の代にはすでに可汗号を使っていたことになる。



誰が最初かは曖昧だが、支那地区の北の方の

部族が使い始めた称号なんでつね。


それが西は。。。



カガン-Wikipedia


wikiカガン




アヴァール-Wikipedia


wikiアヴァール




ハザールの向こう、バルカン半島の赤い部分、

アヴァール、東は。。。



東突厥-Wikipedia


wiki東突厥



バカチョン半島の北側、満州まで広がってた

わけでつね。


チンギスハーンが征服した地域ってのは

昔から可汗を名乗ってた同族・近縁部族がいた


地域だったわけでつね。

で、モンゴル帝国になって東から西まで


ひとつながりになったわけでつね。


で、そのモンゴル帝国から元が成立し、


満州から自称・元の後継としての清が成立。

まあ上記の通り同じような民族だったんだから


後継としての筋はなんとなく通ってるわけでつね。



しかし上記カガン国の一覧にない国が


あるようでつね。

英語版のウィキペを見てみますかね。



Khagan-Wikipedia


wikiKhagan2.jpg



Among the Norsemen and Slavs
Main article: Rus' Khaganate

In the early 10th century, the Rus' people employed the title of kagan (or qaghan), reported by the Persian geographer Ibn Rusta who wrote between 903 and 913.
(リアル和訳:ルーシ族も可汗を君主の称号にしていた。ルーシ・カガン国参照。)


「ルーシ・カガン国」というのがなぜか

一覧にないでつね。


しかしエントリー自体は日本語版にも

あるんでつね。



ルーシ・カガン国-Wikipedia


wikiルーシ・カガン国1

wikiルーシ・カガン国2

wikiルーシ・カガン国3

wikiルーシ・カガン国4

wikiルーシ・カガン国5

wikiルーシ・カガン国6

wikiルーシ・カガン国7

wikiルーシ・カガン国8

wikiルーシ・カガン国9

wikiルーシ・カガン国10

wikiルーシ・カガン国11

wikiルーシ・カガン国12

wikiルーシ・カガン国13



8世紀後半から9世紀の半ばにかけて、現在のロシア北部にあったとされる国家または都市国家群である[3]。リューリク朝キエフ・ルーシの前身となった国であり、ルーシと呼ばれた人々(少なくともその一部はスウェーデンから来たノース人でヴァリャーグと呼ばれていた)によって建国され、ノース人の他バルト人、スラヴ人、フィン人、テュルク系民族などで構成されていた。なお当時この地域は、ヴァリャーグ達にとってスカンディナビア東部への侵出、交易や海賊行為の拠点でもあった

帰国の途中インゲルハイム(en)という町で西ローマ皇帝(フランク王)ルートヴィヒ1世の問いに答えて、ルーシの長がchacanus(ラテン語「Khagan」、「カガン」のこと)と呼ばれていること[# 1]、インゲルハイムの町より遥か北に住んでいること、また、自分たちはスウェーデン人である(comperit eos gentis esse sueonum)と述べたという。

現存する一次資料からすると、ルーシの支配者がカガンの称号を使っていたのは、ルーシがコンスタンティノープルを訪れた838年から東ローマ皇帝バシレイオス1世の手紙が書かれた871年までのごく短い期間とするのが妥当である。

ピーター・ゴールデンの説では、ルーシ・カガン国は、ハザールが度重なるマジャル人の襲撃を回避するためにオカ川の流域につくった国で、ハザールの傀儡国家であったと推測した。

ハザールと初期ルーシ王朝との間に何らかの関連性があった可能性がある。スヴャトスラフ1世など後代のキエフ・ルーシの大公が使用した三叉戟の紋章とよく似た紋章がハザールの遺跡とされる場所から発見されている。

ルーシがカガンの称号をハザールから借用したことは多くの歴史家が認めるところである。

ルーシの主な収入源は交易であった。イブン・ルスタによるとルーシの人々は農耕をしなかったという。「彼らには耕作地がなく、サカーリバ人(スラヴ人)の土地から運んで来たものだけを食べて(生活して)いる。彼らは不動産(土地)も村も畑も持たずに、ただただ彼らの唯一の収入は貂や灰色リス(en)、その他の毛皮の商売から得たものだけである。したがって、彼らはそれらを売却する商売をおこない、硬貨を得ると、その財を彼らの飾り付きの帯の中にしっかりと縛って持っている。」

イブン・ファドラーンは922年に著した『報告書』の中で、ルーシの王は(ハザールのハーカーンと同じように)実権を持たず、代わりに政務や軍事は代理人(副王)が執って、「その人が軍隊を統率し、敵を攻撃したり、また王の臣民のことについて王の代理の役務を果たす。」と記述している。

史料では、ルーシが性についても自由主義だったことを伝えている。イブン・ファドラーンによると、ルーシの王は家来たちの控える前で恥じることなく女奴隷と交わったという。また、ヴォルガ河畔に到着したルーシの商人は、仲間の前でも売り物の女奴隷と交わり、ときには乱交(en)を重ねていることもあった。

860年6月、ルーシは200隻の船団をもってコンスタンティノープルを包囲(en)した。このときビザンティンの陸軍と海軍は首都から遠く離れた場所にいたため、ルーシの攻撃を防ぐ手立てが無かった。ルーシがビザンティン軍不在のタイミングを見計らって襲撃してきたことは、838年の使節派遣以来、ルーシが商業面や他のあらゆる面で関係を構築し、帝国の内情に通じていたことを物語っている。ルーシは同年8月4日に突如引き揚げるまでの間、コンスタンティノープル市街地を徹底的に破壊しつくした[80]。

なお、ルーシは初めハザールと大規模な交易を行っていた。イブン・フルダーズベは著書『諸道と諸国の書』(en)の中で「彼らはスラヴの川(ドン川)からハザールの本営ハムリジ(en)に現れた。その場所は、後のハザールの支配者がルーシから十分の一税を徴集する場所であった」と記している。

コンスタンティノポリス総主教フォティオス1世が正教会の他の主教にルーシのキリスト教化について伝えた直後、ロシア北西部にあったルーシ・カガン国の中心地で大規模な火災がおこり、多くの町が火災によって焼失した。考古学調査によると、この火災がおこったのは860年代か870年代で、ホルムガルド、アルデイギャ、アラボルグ、イズボルスクなどの町で大火災があった証拠が発見されている。なお、これら町のうちいくつかは、この大火の後再建されることはなかった。原初年代記には、土着の信仰を持つスラヴ人やチューヂ人(フィン人)が流入してきたヴァリャーグらに対して反乱をおこし、862年に彼らを国の外に追い払ったとの記述がある。

ルーシ・カガン国が最期、発展してキエフ・ルーシとなったのか、あるいは単にキエフ・ルーシに吸収されたのかは不明である。

860年代のルーシのコンスタンティノープル侵攻についての記述も、ギリシャ側の史料から原初年代記の著者が引用したものであり、これは当時のルーシが未だ書き言葉をもっていなかったことを示唆している。


ルーシ族-Wikipedia


wikiルーシ族1

wikiルーシ族2



中世東ヨーロッパに侵入したヴァリャーグの内、ルーシ・カガン国やノヴゴロド公国及びキエフ大公国を建国した集団に対して、かつての東スラヴ人が用いた呼称。俗にノルマン人であるとされているが、民族系統については不明で、後述のノルマン説に従えばスウェーデン人の一グループとされる

原初年代記などといった中世諸国の文書記録では、彼らがノルマン人でありヴァイキングであったことが示唆されているため、ノルマン説が有力であると見られている。


スウェーデン人-Wikipedia


wikiスウェーデン人



スウェーデン王国の国民、または、北欧スカンディナヴィア半島に分布するゲルマン民族の総称。以下、後者について解説する。

主にスウェーデン、フィンランド、ノルウェーに住んでいる。

98年、タキトゥスの記した「ゲルマニア」によると強勢な種族 "Suiones"(スヴェーア人(スウェーデン語版))の存在が確認出来る。北欧神話によれば、スヴェーア人は古代の紀元前1世紀頃の王にまで遡ることが出来、2世紀にはルーン文字を使用していた。スヴェーア人たちは、ヴァイキング活動の最中に纏まりを見せ、10世紀までにスウェーデン王国を形成した。なお、東方及び東欧に進出したヴァイキングの中には、ルーシ族などがヴァリャーグを構成し、ルーシ諸国家(キエフ・ルーシ等)の建設を担ったとされるが、これもスヴェーア人を含んだゲルマン人だとされている。

これらのスヴェーア人によって、スウェーデン人が形成されたものと思われるが、民族としてのスウェーデン人は、16世紀のデンマークを盟主としたカルマル同盟からの独立によって成立したと言える。



さて、またまた長い引用なのでまとめると、

・ルーシ・カガン国はスウェーデンから来た
 ノルマン人、ヴァリャーグ=黴菌愚で構成。
・「可汗」の称号はハザールに倣ったらしい。
・ハザールの傀儡の可能性もアリ。
・乱交好きのド変態。
・838年から860年まで姑息に様子を窺い、
 防衛軍がいない隙にコンスタンティノープル
 を攻撃。
・コンスタンティノープル攻撃の後、内乱か?
 放火されて町は壊滅(縛w
・9世紀になっても独自の文書記録を
 持たない土人。

読者のみなさんの大好きな

ハザールキタ
wwwwwwwwwwwwwwww

( ゜∀゜)・∵ブハ八ノヽ/ \!!!!!!!!


ルーシ・カガン国はハザールの傀儡か?

というのは推測だが、ハザールと深い関係に


あったのは間違いないわけでつね。

乱交好きのド変態なら交雑があっても


おかしくないでつね。



ハザール-Wikipedia


wikiハザール1

wikiハザール2

wikiハザール3

wikiハザール4

wikiハザール5

wikiハザール6

wikiハザール7

wikiハザール8



ハザールは謎の多い遊牧民であり、起源はもとより系統もはっきりしないが、おそらくテュルク系と考えられている。

中国の歴史書である『旧唐書』,『新唐書』に出てくる波斯(ペルシア)国(サーサーン朝)に北隣する「突厥可薩部」がこの「ハザール」のことと考えられている

ハザールのハーカーン(後述)は「アンサーの子孫に属す( از فرزندان انسا است az farzandān-i Ansā' ast)」と書かれており、この「アンサー」とは突厥王家である阿史那氏の訛音ではないかとも言われている。

ハザールは6世紀のビザンツ史料において、サビル(サベイロイ)と呼ばれており、『戦史』の著者プロコピオスによれば、「サビルはフンの一族であり、カフカスあたりに居住し、多数の首長のもとに適当に分かれている」という。このサビルとハザールがまったく同一の民族であったか否かは確定できないが、少なくとも10世紀のアラブの歴史家マスウーディーは『黄金の牧場』の中で、ハザールをテュルク系サビルとしている。

以前、ハザールはカフカスをめぐってサーサーン朝ペルシアと対立していたが、サーサーン朝が新興のイスラーム共同体(ウンマ)によって滅ぼされると(651年)、代わってイスラーム共同体とカフカスをめぐって争うようになった。

一方、東ローマ帝国とは共通の敵がペルシア(サーサーン朝)とアラブ(イスラーム)と一緒であったため、利害が一致していたが、クリミア半島の領有に関しては争いが生じた。

クリミア南部は帝国領、それ以外はハザール領ということで、両国の友好関係が約200年にわたって続いた。

ハザールのユダヤ教受容は非常に有名であるが、改宗に関する史料は少なく、その時期と実態は謎に包まれており、さまざまな論争を呼んでいる。西欧ではアクイタニア(アキテーヌ)のドルトマルが864年に書いたマタイ伝の注釈の中で、ハザールの改宗にふれているので、864年以前であることは確実であろう。

10世紀のコルドバのユダヤ人ハスダイ・イブン・シャプルトがハザールのヨシフ・カガンに宛てた手紙、いわゆる『ハザール書簡』において、「ブラン・カガンが夢の中で天使に会ってユダヤ教に改宗したが、民衆が新しい宗教を信じなかったので、ベクが尽力してユダヤ教の普及をはかった」という記述がある。ブラン・カガンの時代だとすると、730年 - 740年頃ということになる。

9世紀までに、ハザールの支配者層はユダヤ教を受容したが、住民はイスラム教徒が多かったと考えられている。

965年、キエフ・ルーシの大公スヴャトスラフ1世の遠征で、サルケルおよびイティルが攻略され、ハザール・カガン国は事実上崩壊した。


まあハザールは300年ぐらいで滅亡してて、

国としては大したことないでつね。


イスラエルの領有権という意味で

「ユダヤ人はハザールなんだから


イスラエルとは関係ない」という文脈の中で

出てくる都合上、その部分が取り上げられる


わけでつね。


むしろ重要なのは


「ハザールの可汗は突厥の阿史那氏」

という部分、そして、


「ルーシ・カガン国が860年代に滅亡した

100年後にハザールが滅亡」


という時系列的関係でつね。


ルーシ・カガン国はコンスタンティノープルを


攻撃した860年の直後に反乱か何かで滅亡。

ハザールがユダヤ教に改宗したのは遅くとも


864年。


つまりルーシ・カガン国の滅亡によってハザールが


弱体化、その結果、東ローマ帝国・イスラム帝国の

圧力をかわすためにユダヤ教に改宗し(定説)、


それでも弱体化は止まらずハザールも滅亡した、

と考えれば、ハザールにとってルーシ・カガン国が


緩衝地帯であったことは間違いないわけでつね。


そのルーシ・カガン国を構成してたのは黴菌愚。


傀儡ではなかったかもしれないが、

ハザールと黴菌愚は一蓮托生といっていいぐらいの


密接な関係だったわけでつね。



さてその黴菌愚、「スウェーデン人だ」と


名乗ったわけでつね。

民族としてのスウェーデン人はデンマーク支配を


脱した時に成立と書いてあるので、

実際のところは今考えるスウェーデン人ではなく


スウェーデンから来た人間、ってことでつね。


じゃあルーシ・カガン国が滅亡した後


どこに行ったか?

少なくとも、その後にはキエフ・ルーシが


できたわけだが、



リューリク-Wikipedia


wikiリューリク



862年にラドガ(現在のロシア連邦・スタラヤ・ラドガの辺り)を支配し、ノヴゴロドを建設したとされる、ルーシの最初の首長である。
リューリクの後裔は、キエフ・ルーシから16世紀のロシア・ツァーリ国に至るまで、公、大公、ツァーリなど支配者として君臨した。後世に同名の君主があるため、リューリク1世とも呼ばれる。


862年に支配したってことは、ルーシ・カガン国で

反乱を起こした側でつね。


つまりキエフ・ルーシは黴菌愚ではない。


北欧の黴菌愚勢力と合流して海賊行為に


いそしんだと考えるのが自然でつね。




つづく

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コメント

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No title

再度申し上げますが、ここのブログこそが「現在日本で1番読むべきブログ」だと確信、断言する次第です。

これこそが成る程「リアル分析」そのもの。

はやく続きを読みたいです!凄い!
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Author:わかり松。
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