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【新年特集】ハーン2 (2)

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【新年特集】ハーン2 (1)

では「タタルの起源はモンゴル同様、6世紀から

10世紀にかけて中国東北部に存在した室韋族」


というのを引用したが、「室韋族」と

いうのは。。。



室韋-Wikipedia

wiki室韋103


史書の『隋書』『北史』では鮮卑宇文部の末裔として書かれ、『新唐書』では北部の東胡でおそらく丁零の末裔としている。


宇文部-Wikipedia

wiki宇文部104

wiki宇文部204


匈奴系鮮卑の一部族で、宇文莫圭のときに強盛となった。南北朝時代にはその子孫が北周を建てた。

宇文部の出自は、黄帝に滅ぼされ朔野に移り住んだ神農氏の子孫で、葛烏菟という者が最初に大人(たいじん:部族長)となったのが始まりとされる。部族名の由来は、葛烏菟の次に大人となった普回が、狩りの途中で「三紐の玉璽」を拾った際、これを天授だと思い、「天を謂いて宇と曰く、君を謂いて文と曰く」とし、国号と氏を宇文としたという。〈『周書』帝紀第一〉

また、『資治通鑑』巻八十一太康六年注引『何氏姓苑』において、「宇文氏は炎帝の出自であり、炎帝が草の効能を試したため、鮮卑語で草をいう『俟汾(しふん、qifen/sifen)』から、俟汾氏と名乗り、その後訛って『宇文氏』となった」とある。



鮮卑の後裔で、鮮卑が「可汗」を使い始めた

というのは「ハーン」で書いた通りでつね。



で、一部の「鮮卑」は「匈奴」の後裔で、

可汗一味の大本なわけでつね。



匈奴-Wikipedia

wiki匈奴106

wiki匈奴206

wiki匈奴306


紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。

戦国時代

紀元前318年、匈奴は韓、趙、魏、燕、斉の五国とともに秦を攻撃したが、五国側の惨敗に終わった。
趙の孝成王(在位:前265年 - 前245年)の時代、将軍の李牧は代の雁門で匈奴を防ぎ、単于の軍を撃破した。

秦の時代

紀元前215年、秦の始皇帝は将軍の蒙恬に匈奴を討伐させ、河南の地(オルドス地方)を占領して匈奴を駆逐するとともに、長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防いだ。単于の頭曼は始皇帝および蒙恬の存命中に中国へ侵入できなかったものの、彼らの死(前210年)によってふたたび黄河を越えて河南の地を取り戻すことができた。ある時、単于頭曼は太子である冒頓を人質として西の大国である月氏へ送ってやった。しかし、単于頭曼は冒頓がいるにもかかわらず月氏を攻撃し、冒頓を殺させようとした。冒頓は命からがら月氏から脱出して本国へ帰国すると、自分に忠実な者だけを集めて単于頭曼を殺害し、自ら単于の位についた。

単于となった冒頓はさっそく東の大国である東胡に侵攻してその王を殺し、西へ転じて月氏を敗走させ、南の楼煩、白羊河南王を併合した。さらに冒頓は漢楚内戦中の中国へも侵入し、瞬く間に大帝国を築いていった。

北匈奴の滅亡

翌年(90年)、休蘭尸逐侯?単于は使匈奴中郎将の耿譚とともに北単于を襲撃し、その翌年(91年)にも右校尉の耿?の遠征で北単于を敗走させたので、遂に北匈奴は行方知れずとなり、中華圏から姿を消した(その後の北匈奴は康居の地に逃れて悦般となる。)。

また、18世紀以降から、4世紀にヨーロッパを席巻したフン族と同一視する説が存在するが(フン族#フン=匈奴説)、未だ決定的な見解がでていない。



秦や漢と戦ったということで、2200年以上

前から敵対関係だということでつね。


秦の始皇帝が作った万里の長城は匈奴に対する

防壁だったわけでつね。



で、「東胡」とも戦って、滅ぼしたわけでつね。



東胡-Wikipedia

wiki東胡105

wiki東胡205


その後、東胡の生き残りで烏桓山に逃れた勢力は烏桓となり、鮮卑山に逃れた勢力は鮮卑となった。『魏書』によれば、柔然も東胡の末裔だという。

近年は鮮卑(とくに拓跋部)の言語がモンゴル系であること、東胡時代の遺跡や遺物から鮮卑や烏丸に特徴的な習俗の痕跡が発見されていることから、東胡もモンゴル系とみる解釈が有力視されている。



東胡の一部は烏。

東胡=とうこ、とーこ、とrこ、トルコ。。。

そう、東胡というのはトルコの語源なんでつね。



トルコが日米路路線に抵抗して揉め事を起こす

のはこういうことなんでつね。



東胡の一部が鮮卑に入って匈奴の後裔と混ざり、

可汗一味となっていくわけでつね。




「フン族」と同一かもしれないということ

だが。。。



フン族-Wikipedia

wikiフン族1

wikiフン族2

wikiフン族3

wikiフン族4

wikiフン族5

wikiフン族6

wikiフン族7

wikiフン族8

wikiフン族9


北アジアの遊牧騎馬民族。中央アジアのステップ地帯が出拠と考えられる[1]が、民族自体の出自についてはかなり以前より「フン」=「匈奴」説などがあるものの、いまだ定説となっていない。言語学的にはテュルク語族に属すると考えられている[注釈 1]。

4世紀中頃から西に移動を始め、これが当時の東ゴート族、西ゴート族を圧迫して、ゲルマン民族大移動を誘発、さらには西ローマ帝国崩壊の遠因ともなった[2]。5世紀中頃のアッティラの時代に統一帝国を築いて最盛期を迎えたが、453年に王の死去、翌年には帝国は瓦解、急速に衰退した。

同じ名称の後裔または後継者がおおよそ4世紀から6世紀に東ヨーロッパと中央アジアの一部に住んでいたと記録されている。フン族の末裔が8世紀前半にカフカスで記録されている。

395年、フン族は初めて東ローマ帝国へ大規模な攻撃をかけた[3]。フン族はトラキアを攻撃し、アルメニアを蹂躙してカッパドキアを却略した。

410年頃にフン族は、ドナウ川中流域の平原を制圧した[7]。フン族は東ローマ帝国への侵入と略奪を繰り返し、このため東ローマ皇帝テオドシウス2世は430年頃に、フン族へ毎年金350ポンドの貢納金を支払う条約を結んだ。

パンノニアに帰還したアッティラは、再度の東ローマ帝国侵攻を企図するが、翌453年に自身の婚礼の祝宴の席で死亡した(脳出血または脳梗塞という説が有力である)。

ヨーロッパでは、ローマ教皇の忠告を守らなかったアッティラに神の天罰が下り死亡、残された部下は天罰を恐れ、ローマ教皇の忠告を守り、夕日を背にして生まれ故郷の東方に帰っていった、という非常に有名な伝承が残っている。この事件をキリスト教が布教活動に利用、ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるきっかけになったとされる。


フン王アッティラと会見した東ローマ帝国のプリスクスの所伝を引用したヨルダネスは「アッティラは背が低く、胸は広く、巨大な顔を持ち、眼は小さくて落ちくぼみ、髯は薄く、鼻は低く、顔色は黒ずんでいた」と記しており、フンがモンゴル型種族(モンゴロイド)であったことを示している。

彼らは男児の顔を剣で切るスカリフィケーション(傷による身体装飾)を行う。その他の一般的なフン族の習慣は、顔面を広げて敵に恐怖心を与えるために、幼児の頃から子供の鼻を縛り付けて平たくすることである。発掘されたフン族の頭蓋骨は、幼児期に頭を儀式的に縛り付けた結果である人工的な頭蓋骨奇形の証拠を示している。

アッティラの時代になると、フン族社会の経済は遊牧ではなく、略奪と従属部族からの搾取によって成り立っていたと考えられている。

後の多くの国々がフン族の民族的、文化的後継者であると主張している。ブルガール王侯表(en)は、ブルガリア王家がアッティラの子孫であると信じていたことを示している。ブルガール人はおそらくフン族の民族同盟の主要構成員であったであろう。フン族とブルガール人の文化には幾つかの類似があり、例えば人工的頭蓋変形の習慣などの考古学的証拠は、両者の強い連続性を示唆する。

定的な歴史学的または考古学的証拠がないにもかかわらず、賛称(ハンガリー国歌)はハンガリー人を「ムンズク(Bendeguz:en)の血統」(アッティラの父)であると述べている

中世のキリスト教伝説では、1万1千人の処女とともに巡礼の旅に出た聖ウルスラはフン族に襲われ、聖ウルスラはフン王の矢で射殺され、1万1千人の処女たちは虐殺されている。



「11」(縛w
ウルスラ(縛w
ブルガリア(縛w
ハンガリー(縛w
ゴート族(縛w

ドナウ川辺りまで征服してゲルマン民族の

大移動を誘発。


つまり今のドイツ辺りにもいたわけで、

その血筋の人間が今に至っててもおかしくない


でつね。

ゴータ家とか(縛w



東ローマ帝国とも敵対関係。

キリスト教の権威のための引き立て役。



ドイツ語で鶏のことをハーンというのは

この辺にも理由がありそうでつね。



略奪と搾取でメシ食ってたとか、さながら

金融不正と原油不正でメシを食っている


現代の可汗一味と全くおんなじでつね。


頭蓋変形させてフライパンでたたきつけたような


顔にしてたようだが、それはすなわち元の頭蓋骨

が前後方向に出っ張っていたということでつね。




チンギスハーンの祖先はこんなろくでもない連中

だったわけで先祖と同じように東ヨーロッパまで


攻め込み名だたる騎士団を粉砕したわけでつね。


で、チンギスハーンといえばネストリウス派。



ネストリウス派-Wikipedia

wikiネストリウス派107


ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれた。325年のキリスト教会最初の公会議ニカイア公会議で三位一体説が正統とされたため、それに異を唱えるネストリウス派は431年のエフェソス公会議において異端認定され、排斥された。これにより、ネストリウス派はペルシャ帝国へ移動し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった。唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちアッシリア東方教会が継承した。



ネストリウス派ってのは三位一体によって

キリスト教から追い出された宗派わけでつね。


匈奴やその末裔のチンギスハーンが

東ローマ帝国に何度も攻め込んだのは、


追い出されたネストリウス派による誘導が

あると考えられるわけでつね。




さて、匈奴は秦と敵対してたわけだが、

秦といえば。。。



秦氏-Wikipedia

wiki秦氏


『日本書紀』において、応神14年(283年)、天皇に仕えた弓月君を祖とし、百済より百二十県の人を率いて帰化したと記されている。[1](別名は融通王[2])を祖とする。『新撰姓氏録』によれば弓月君は秦の始皇帝の末裔とされるが、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって、その真実性には疑問が呈せられており、その出自は明らかでなく以下の諸説がある。

秦の遺民が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)の系統。(太田亮)
百済系渡来氏族。弓月の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音である。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する。(笠井倭人・佐伯有清)

弓月君は中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味する。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す。(田辺尚雄)

景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする(日ユ同祖論)。(佐伯好郎)

『隋書』には、風俗が華夏(中国)と同じである秦王国なる土地が日本にあったことが紹介されており、これを秦氏と結び付ける説もある[11]。

本居宣長や新井白石は『新撰姓氏録』や『古語拾遺』に依ってハタでなく韓国(からくに)語のハダ(波陀)と読むとした。


日系スペイン人-Wikipedia

wiki日系スペイン人101


最初のスペインへの移民は17世紀の支倉常長による慶長遣欧使節がスペイン南西の都市セビリア近辺にあるコリア・デル・リオに長期滞在したことに始まる。この町には現在、ハポン(スペイン語版)(Japon=日本)姓もしくはXapon姓の人が約700住んでおり、この使節団の中で日本に帰らず現地に留まり移住したキリスト教徒の日本人や使節の現地人水夫、その支援者の子孫であると言われている。



秦から来たから秦氏、

日本から来たからハポン、


そのまんまやないけ!!!!(縛w



さて、モンゴルにチンギスハーンが現れてから、


モンゴル高原の統一、そして周辺国への侵略が

始まるわけでつね。



中でも元寇に直接つながるのがこれでつね。



モンゴルの高麗侵攻-Wikipedia

wikiモンゴルの高麗侵攻102


モンゴルによる高麗併合

その後、高麗王室と元皇室や元の貴人は互いに姻戚を結び、4代の高麗王は元朝宮廷において最高ランクの金印獣紐を授けられる諸王・?馬のひとつ「?馬高麗王」の地位を得る。元宗の子・忠烈王(在位1274年 - 1298年、復位1298年 - 1308年)にクビライの皇女クトゥルク=ケルミシュ(中国語版、韓国語版)公主(齊國大長公主 忽都魯堅迷失)が下嫁した。

第1・2次の征東行省において高麗国王は次官(長官は右丞相の阿剌罕、阿塔海ら)となった、第3次では無官となるが忠烈王の復位した際に再び左丞相に任じられた。恭愍王(在位1351年 - 1374年)に至るまで約80年間、歴代国王は世子の時期にモンゴル宮廷に人質(トルカク)として赴き、ケシクなどのモンゴル宮廷での歴代モンゴル皇帝近辺での職務に従事し、これによってモンゴル名を与えられ、またモンゴル貴人の娘を娶り、前王が逝去した後に帰国し、高麗王に就くのが慣例となる。

クビライ時代は「帰順が遅かった叛逆諸候のひとつ」としてクビライからカルルク王家と比べられて詰られる場面もあったが、クビライ晩年のナヤン・カダアン(中国語版)の乱の鎮圧にも従事し、その鎮圧にあたった皇孫テムルがクビライを継いでモンゴル皇帝に即位すると、高麗王家の地位は上がった。しかし、クビライ王家との姻戚を深めることは同時にテムル没後のクビライ王家内における皇位継承紛争の影響を直接受けることに繋がり、モンゴル宮廷の高麗王族・官僚と高麗王室で確執が生じ、大都宮廷での内紛に伴うモンゴル皇帝の交替に伴い高麗王の改廃も生じる事態となった。また、高麗から宮廷などへ高麗王族と貴族が出仕する例が増え、高麗国内よりも高位の職を得る人物も出現した。元朝最後の皇帝(大カーン)となったトゴン・テムルの皇后となりアユルシリダラ(北元2代カーン)を生んだ完者忽都皇后(奇皇后)は、高麗からモンゴル宮廷に宮仕えのために出された宮女であった。

忠烈王の親モンゴル政策と日本侵攻(元寇)

特に忠烈王は父の元宗の路線を継承し、親モンゴル政策に傾倒した。忠烈王は元宗廃位事件によって父元宗救出のためモンゴル軍の出動を要請したおりに、高麗は以後モンゴル側への出征には率先して労力を惜しまない、という言質を与えたため、クビライの日本侵攻の意志が固まる頃には、その応対に「率先して当たる」態度を幾度も示さねばならなかった。出征に供出する兵員や人員、装備は高麗の国情にとっては重い負担だったようで、クビライの要求を受け入れつつ負担の軽減をその都度嘆願し、場合によっては自弁し切れなかった武器などを元軍から支給してもらうなどしていた。日本侵攻の為の第二、三次征東行省が置かれたが、高麗国王がその次官である左丞相となった。

文永・弘安の役に関わる一連の出来事は高麗王にとって、一面では高麗王家の地位安定に向けた絶え間ない危機と模索の時期であったともいわれる[28]。日本への最初の侵攻となった文永の役(1274年)は、三別抄鎮圧の翌年、遠征軍出発に先立つ高麗世子?と皇女クトゥルク=ケルミシュと婚姻、直後に元宗が死没しており、その喪が明けると同時に世子?は忠烈王として即位した年でもあるという、高麗にとっても目紛しい年であった。征東行省を運営したダルガチ以下のモンゴル人の役人は、高麗では貴族として扱われた。



モンゴルの役人が貴族扱いとか、襲撃された

アメリカ大使に対する謝罪で奇痴害踊りをしてたのと


まったくおんなじ(縛w


征服されてから約70年間、下等生物の嘔毛は


チンギスハーンの家系と婚姻を結んでいて、

もはやモンゴル人といってもいいぐらい


混血が進んでたわけでつね。


逆に、元の皇帝の子供も半分チョンとか(縛w


可汗一味ワールドでチョンがデカいツラを

している理由はここにあるわけでつね。


逆に言うと、元から続く因縁、そしておそらく

血脈も、650年以上経った今の今まで


続いているということなんでつね。


そしてGHQがチョンを使って日本を汚染した


理由も、650年越しの元寇で日本を征服し、

蹂躙するためだということなんでつね。



元寇後、50年ぐらい支配された後、元の衰退に

よってようやく独立するわけだが、最終的には


高麗嘔毛はヒ頁されて李氏チョン国ができる

わけでつね。


それが1392年。


まあ逃げたヤツもいるでせうな。


逃げたヤツはどうしたんでせうか?

それはまた次回で。





皆でカニ食べてたら遅くなってしまいました。

ごめんなちいm(__)m

【新年特集】ハーン2 (3)

は明日公開の予定です。

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